書き溜め漂流記

食後すぐ横になるのが好きな人間の毎日。メランコリックと共存しています。

どうしてこんなことが起きているのという話

飲みたい。毎日飲みたい。

というか、飲んでる状態の自分が大好きだ。

ほろ酔いくらいの自分はなんでもできそうな気がする。

これはきっとアル中なのかもしれない。
そんなのはどうでもいい。この方が自分が楽に生きられる気がする。

無責任に「生きろ」という人の言葉よりも酒の方がよっぽど私の心を軽くする。
だし、いろんなことを考えている気がする。

事実、飲んでいるほうが想像力が豊かになる気がしている。


かの有名な文豪たちも熱海の旅館に缶詰になって、こうやって言葉を紡いだという話を思い返すと酒が悪いとは思えない。


真っ当に生きるのであれば酒は悪なのかもしれない。でも私にはやっぱりお酒を飲むことが必要だ。


最近悲しかったことといえば、トルコ、シリアの地震だ。

日に日にありえない速度で死者数が増えていくニュースの速報に背筋が震えた。

日本に生まれた私は、地震大国とはいえ死者は波に流される数の方が多いと思っていた。それは私が日本という価値観の中で生きていたから。

しかし違う国を冷静に見つめてみると、そうではなかった。

トルコの隣、シリアでは絶えず戦火が広がっている。

彼らは地表に飲み込まれていった。
荒れ狂う海ではない。

この間にも地震とは関係なくISによってミサイルを打ち込まれた。

また何人かが地表に飲み込まれてしまった。


考えてしまう。


もし戦争がなかったら。地震が起きたとしてもその地表の狭間で生きていた命があったかもしれないと。


もともと地震が多い地域だとしても戦争がなくて


もし、医療班が早くたどり着いていたら。

もし、もっと建物の免震に国のお金が使えたなら。

もし、物資が行き届くまでに時間が短かったら。

 

遠い国で私は何も辛い思いをしていないはずなのに、なぜか想いを馳せてしまう。

辛いわけでも、悲しいでもない。

なんというか、自然災害以外の要素でなくなった人が多い気がしてしまったのだ。


自然災害が直接的な理由で亡くなったとていいとはいえない。

でもそういうのは何百年、何千年と人が受け入れてきた事実なはずだと思ってしまうのだ。

なんていっていいかわからないけど。

戦争が間接的な要因として、人が亡くなる理由については理解が追いつかない。


今、戦と自然に敗れることのどちら位が苦しいかを考えている。

私はシリアの地理がよくわからないが、同じ国内で紛争が続く中、地震も起きている。

私なりに想像するなら、戦に負けたときの方が辛い気がするがどうだろう。

わからない。
でも何れにしても、人には避けられない悪夢があるはずなのに、わざわざ避けられる悪夢と向き合う必要性はどこにあるんだろう。

今、中東で起きていることは紛れもなく、避けようがない悪夢と避けられたはずの悪夢だと思っている。

私は当たり前のように、友人や家族と翌日以降の予定を立てているのに、その当たり前を失う気持ちはどんなものだろう。

わからない。

当たり前の明日を失った人は日々、毎日、毎秒、毎時間いるのに。画像や映像で見てしまうと、鮮明に視えてしまう。

わからないのに、正しくは鮮明に想像してしまう。


そして同時にすごく苦しくなる。

勝手に想像して、グロいのも辛い映像も平気なのに。

その背景を勝手に想像してしまう。