書き溜め漂流記

食後すぐ横になるのが好きな人間の毎日。メランコリックと共存しています。

こころは紙一重な話

楽しいことも悲しいこともここには書くけど、色々ふとしたときに

 

やっぱり私は関わった人たちに何かあったときのために遺書を残すべきなのかなと思う。

 

どうせ死なないだろうし、死ねないとは思うけれど。

 

どこかでこんな憂鬱な気持ちと一緒に生きているうちにふとしたとき、何か間違えて死んでしまったらと思うと。

 

死ぬことを”間違えて”と言えるようになっただけ私は少しまともになった気もしている。

 

みんなに謝りたいしありがとうとは言いたい気持ちがある。

 

人のために死ぬわけではないけど

私がいなかったら幸せになれる人は少なからずいるはずだし、人が死んだという事実に喪失感は覚えるかもしれないが、それでも多少なりともプラスになるところはある気がしている。

 

なんでかこんなに知っている人に見られたくないブログを知っている人に見せてしまったこともあって、遺書ってやっぱり必要な気がしてしまう。

 

未練がましいところがあるので、今すぐに死にたいとは思わずとも

何かあったときのためにそれぞれへの想いは伝えるべきなような、それともわからないままにしたほうがいいような。

 

こんなことをまともに話したら人におかしいと思われるのが関の山と思いつつも、自分の胸の内を伝えたいという想いは強い。

 

私はこの先あとどれくらい辛い思いをして辛い思いをさせて生きていくんだろうと考えるとゾッとする。今まだマシな気がするうちにどうにかしたほうがいいとも思う。

 

今はちなみに酔っていない。でも、なんだか、すごく書きたい気分でブログを開いた。

 

何を書きたいかはわからないけれど、ただこうやってアテのない気持ちをフラフラと

 

徒然なるままに書くことが昇華であるなら、意味わかんねーなと思われても、やばいやつだと思われるとしても、書かなきゃいけないと思っている。

 

以前はこんなことを思って、さらに書き残す自分がどうしようもなく許せなくて、苦しかったけど、今は書かなきゃという気持ちに変わっている。

 

私の死にたいという思いが世の中でおかしいと思われるのは、少数派な考えであることの表れだと思っていて、

 

であれば少数派の人がなんとなくこの文章を見たとき、仲間意識みたいなものが芽生えたら少し嬉しい。

 

私は誰かがこういうことを書き垂れ流していたらちょっと嬉しいから。誰かが私の文章を読んで救われたらいいと思う。

 

 

嫌でも、どうせ死にたいと思っても死ねないのであれば、少しでも自分が生きている価値の比重を死んだ場合よりを重くしなくちゃいけない。

 

毎日そういう積み重ねで、気がついたら時間が流れて、また終わったはずの苦しみにぶつかったりして、いつになったら助かるんだろうとか考えたりする。

 

そんな中で私は、書くことしかできない。

 

この気持ちを共有するのはすごく難しい。

 

だから自分が落ち着いているときに文章で残して何か伝えたいと思うんだろうな。

共有できなくてもいいから言葉にはせめてしたいというか。

 

逆にいうと書くという行為で自分を落ち着けているところもある。

 

昼飯をうまそうに食っておきながら、あるタイミングでこんな感情が渦巻くんだから生きるって難しい。