書き溜め漂流記

食後すぐ横になるのが好きな人間の毎日。メランコリックと共存しています。

忘れ物でスッキリな話

おはようございます。

 

つい先ほどまで2時間ほど寝ていた。

 

短時間ながら珍しくぐっすりだ。

 

と言っても早寝をしたわけではなく、直前まで酒を飲んでただ酔いつぶれていただけなのだが。

 

やっぱり、蒸留酒はいくらか飲んでも元気だが、焼酎とかワインの醸造酒はすーぐ眠くなる。

いや、潰れると言う表現が正しいか。

 

 

不眠症の私が眠れる数少ない方法、酒で潰れる

 

”睡眠”と言う体にいいことのはずが、質がだいぶ変わってきているな…。

 

まぁ今日は結構昼から夜までバタバタ体力を使ったおもあっていつもより酒の回りも早かった。

 

にしてもここ数日のポカポカから、ガクッと冷え込むと堪えるものがある。

久しぶりに寒すぎて歯がなった。

 

 

ただ昨日、一つやらかしたことがある。

 

 

携帯を出先に忘れてきた。

 

 

しかも気がついたのが家に着いてからという。

この携帯への執着のなさ。

 

帰ってから先ほどまで一緒だった知人にパソコンから、その旨を伝えて一緒に探してもらうことに。

 

 

あっさり見つかったが、焦りも困ることも何もない。

 

 

私はよく携帯をなくす。

 

もしくは忘れてくる。

 

 

頻繁にあることなのだ、そうだな、年に3回ほど。

 

 

警察やら店やら、あちこちに取りに行く。

しかもたいてい忘れる時は素面のことが多い。

 案外、酔っ払っているとしっかりしなきゃと思ってすぐ携帯がないことに気がつく。

 

なんでか他のものは無くさないのに携帯だけは何年も前からすぐ忘れる。

 

すぐ気がついた場合はすぐに取りに行くことが多いが、気がつかないと数時間後にアレとなることもある。

 

 

思ってる以上に携帯に執着がないし、なくてもいいものなのだ。

 

 

ただ、仕事をしている以上は

「私携帯ありませんので!」

とするわけにもいかずで。

 

伝書鳩とか糸電話の時代に生まれたかった…

 

 

ないとあれこれ情報が入ってくることもないし、パソコンはなんでかすぐ返信しなきゃという焦りもない。

 

まぁ本当に重要なメールやラインには即座に返事をするが。

 

 

気持ち的に楽なのだ。

解放された感じというか、心がデトックスされていることを感じる。

 

なんとなく見てしまうこともないし。

 

とっても楽。

 

 

はああああ携帯ガラケーでいいんだけどな。

スマホって本当時々ストレス感じる。

 

便利だ。ないと確かに困ることや周りに迷惑がかかることも多々ある。

 

 

それにしてもいろんな情報が溢れすぎている。

 

もうコロナの話題は3日に1回くらいでいいし、仕事の連絡もなんも受けたくない。

 

そんなときにこうやって強制的に携帯がない環境に置かれるとちょっとほっとする。

 

心をすっきりさせて生活するのであれば、足し算より引き算も大事だと感じる出来事だった。

 

 

コロナのおかげで人ぎらいに拍車がかかって、壁と話す頻度も多いが。

自分にとって不要な関係性はこれを機に整理しないといけない。

 

 

前にも言ったがもう私は人目を今までほど気にしたり、他人に気をつかいすぎて生きることをやめたのだ。

 

 

もうそんなことしてたらいよいよまたずーーーっとどん底、しんどくなる。

 

 

うつ気味な気分も本音は減らしていきたいし。

 

だからこうやって書くことを始めた。

 

今年は自分の身に起きたことを嘆く悲しむことからもう一段ステップアップの年にするのだ。

 

無理に酒をやめることもしないし、少しずつ変えられることを変える。

 

うつ気分とは共存してたので慣れた。

なってもその当時は辛いが少し落ち着いたときに客観的に自分を振り返って

 

あーまたうつだったな。はいはい。

と流せるところまで来た。

 

でも可能であれば共存はしたくない。

 

何かもっと、どうせ生きているならプラスになることと共存したい。

 

 

 

 

携帯ってもしかしたら1番いらない、私を疲れさせているものなのかも。

 

それにしても早速二日酔い気味で頭がいたい。

胃の話

書こうとか、これ書きたいとかそういうものはたくさんあるはずなのに

 

いざ人目につくものとなると、いや今はこれは違うとか、これがいいとかいろいろ考えあぐねて打つ手が進まないこともある。

 

まぁいいか。そんなに気にしなくても。

 

 

最近家で飲むコーヒーのおいしさに気がついてしまい、外で飲む頻度が圧倒的に減った。

 

セブンイレブンで最初、紙コップに5回分入った粉末タイプのコーヒーを購入していたのだが、

ミルクや砂糖など使わない付属品がもったいなくて、即10回分入ったよりコスパのいいパックのものに変えた。

 

数回にお湯を分けて入れるので、ちょっとゆっくり時間をかけながら淹れていくのだが、これがまた部屋にコーヒーの匂いが充満していくのでなかなかいい。

 

朝はコーヒーの匂いで頭をシャキッとさせるという流れが出来てきた。

 

 

おかげで1日に飲む量が増えた。

 

そのせいなのか脱水が起きて、身体中がただでさえ乾燥しているのに加えてさらに悪化した気がする。

 

コーヒー代を浮かせたら今度は保湿クリームを買う羽目になったので結局コスパとはなんだったのだろう…

 

 

コーヒーの量が増えた分水を飲む量も増えてトイレの回数が増えた。

 

固形物を胃に入れるキャパシティがそろそろ危ない。

 

水腹でいつもタプタプだ。

 

 

 

胃の話で思ったのだがここ1、2年だろうか。

 

 

以前より圧倒的に食べられるものの幅が狭まった。

 

胃の容量はさることながら、ちょっと重たいものを食べられるタイミングが難しくなってきたのだ。

 

 

もともとはかなり食べる方で、油物も炭水化物もなんでもよく食べていた。

 

 

食べ過ぎはよくないが、当時の胃の調子は問題なかった。

 

 

加齢のせいもあるが、喫煙や飲酒も関係あるだろう。

 

近頃は消化不良をすぐ起こすので、食べるものが難しくなったのだ。

 

消化に良いとされるうどんですら、最近は重たくて野菜を多めに煮込んで麺は1人前の半量でちょうど良い。

 

白いご飯も1膳食べるとかなりきつい。

 

お腹が苦しいのと、食べて数分後にしばらく継続される胃のむかつきが気になる。

 

特に油物はそうだ。

 

気持ち的に食べたくなることがあるのだが、

 

久しぶりについ先日、唐揚げを2つほど食べたところ翌日もなんとなくお腹がずっといっぱいな感じがしてショックを受けた。

 

 

これが老化か…

 

 

一時期体型を気にして油物を避けた若かりし頃の自分に説教したくなった。

 

 

食べられるうちに食べておけ。

 

気がついたらそれは食べたくても体がついてこなくなるぞ。

 

と。

 

 

本当にケーキでもトンカツでもなんでももっと楽しく普通の量が食べられるうちに食べておけばよかった。

 

 

食べる楽しみというのはいつ間にか制限ができてくる。

 

 

もちろん年齢関係なくいつまでもなんでも食べられる人もいるだろう。

 

だが、若いうちほどそれらを避けて食べないことほどもったいないことはないと思った。

 

 

今は太るからヘルシーにしよう、じゃなくて、食後の胃の状態を考えた食事選びが中心になっている。

 

 

こんな悲しいことはない。

 

 

 

いつか大人たちが言った、だんだん食べられなくなるよという言葉。

 

そんなはずないジャーンなどと、日本昔話のようなご飯に焼肉を食べ、〆に冷麺までしっかり食べていたあの頃。

 

仕事や生活に追われ、気がついたら本当にそうなっていた。

 

私はストレスがたまると、どちらかというと食べることができなくなるタイプ。

 

 

年を重ねる意味を日々身体で実感するのってこんなに悲しいんだな…

 

 

できるなら今ケーキバイキングとかに行って端から端まで全部食べてみたい。

 

 

若者よ、今のうちに

 

食べられるうちに食べておくが良い。

 

スケジュール帳の話

そういえば先日、スケジュール帳を買った。

 

以前も書いたが1月末くらいに買おうか迷って、買ったのだ。

 

だがほぼ買った状態に近く、書いてあるのは結局寝坊した"ジム"のひとことだけ。

 

予定は未定だ。

 

光熱費の引き落とし日でも書こうかと思ったが、そんなもん嫌でも払わなきゃいけないし、書くだけ寂しくなるのでやめた。

 

黒いボールペンで書かれたジムの字が最初からそこに印刷されたかのように佇んでいる。

 

 

もう2月も半分終わっちゃうじゃないか。

 

だれか、架空の予定を…

 

…架空の予定をくれ!

 

 

でーと♡

とか

○○さんとランチ

とか

 

書きたい…

 

書くだけでいいのだ。

 

なぜなら私は予定の前日や当日の朝になると猛烈に家から出たくなくなるドタキャンクソ人間なので。

予定は立てられない。架空じゃないと。

 

誰か似合うのもその日のノリじゃないと会えない。

 

もうほんっとうにどうにかしたいが、心が言う事を聞いてくれないのだ。

 

行きたくないもんは行きたくない。

 

でも予定がないとスケジュール帳に書くことがない。

 

ひねり出してかけることは給料日までのカウントダウンくらいだろうか。

 

それ以外といえば私の予定はタバコを吸うとかコーヒーを飲むくらいしか何もしていない。

 

スケジュール帳にタバコ🚬と書くのか…?

 

いや、落としたときに恥ずかしすぎる。

そんな手帳…

 

スケジュール帳、何を書けばいいのかここに来てドンづまる。

 

進捗があれば報告します。

 

ハンバーグの話

今日はお昼、なぜだか突如としてハンバーグを作りたい気持ちに駆られ

 

先程まで挽き肉をこねくり回していた。

 

ハンバーグを食べたい。

 

ではなく

 

ハンバーグを作りたい。

 

 

 

正直ハンバーグはあまり好きではない。

 

ハンバーグは微妙なのにハンバーガーは好き、基本的に肉を加工したものをあまり積極的に食べない。

 

ソーセージ、肉団子、ハム、シュウマイらへんだろうか。

 

嫌いではないが特別食べたいということは滅多にない。

 

おそらく昨日寝る前にTasty made Japanの動画を見たせいだな…

 

ということで挽き肉をケチって木綿豆腐を混ぜた豆腐ハンバーグを作ることにした。

 

こねられればいいのだ。

 

まな板も包丁も使わず

 

挽き肉

木綿豆腐半丁

カット野菜(もやし)

コショウ

 

をそのままボウルに打ち込んでぐっちゃぐちゃにまぜる。

 

豆腐を潰すというちょっと食べ物で遊んるかのような背徳感…

 

 

全部目分量。

 

あとなんとなく卵も入れてみた。

 

ヘルシーを意識してつなぎの小麦粉は入れない。

 

私の思いつきクッキングは基本手抜きなので洗い物も少なめ、あと今回は豆腐の水切りもせず混ぜた。

 

そのせいか混ぜたタネから恐ろしいほど水分がシミ出てボウルはベチャベチャ。

 

フライパンで焼こうにも、煮込みハンバーグのような仕上がりでいい色の焦げ目をつけられなかった。

 

そのおかげか割とふっくらに出来上がった。

 

肉汁、というか豆腐汁が滲み出たフライパンにウスターソースとチューブにんにくをいれて煮詰めたソースをかけたらできあがり。

 

目分量豆腐ハンバーグだ。

 

見た目はあまりよろしくないものの、野菜も入れたので健康的なランチになった。

 

しっとりしていてなかなかうまくできたと思う。

 

これで当分は捏ね欲から開放される。

 

洗い物が少ないというのもいいな。

 

ただ、ハンバーグを作るたびに毎回思うのだが挽き肉をいれた容器の洗い物はどうしてあんなに死ぬほどめんどいのだろうか…!

 

洗っても洗っても脂が取れない。

こねくり回した手も指の隙間までゔぇたゔぇただ。

 

妙に嫌なしっとり感…

 

 

お湯を沸かしてボウルに流し入れた。

 

 

手に熱湯をかけるわけにはいかないので私の手はまだしっとりしている。

 

そうだプラスに考えよう。

 

ハンバーグを作ると手が潤う。

 

 

天然のハンドクリームだ…

 

 

 

風水の話

コロナで収入が不安。

 

そんな人も多いはずだ。

 

私もこんだけのんびり生きておいて無いわけではない。

 

そもそも物欲がなく、遊びに行くこともほぼないので余計な出費は少なめな方だが。

 

 

やはり来月以降を考えるとどうなるか不安なところはある。

 

そこを考え出すときりがないので、

 

 

最近は玄関と水回りをめちゃくちゃきれいにするようにしている。

 

困ったときの神頼みとはいうが、もうめちゃくちゃきれいにして運気をあげようとしている。

 

流し台、キッチン、トイレ、風呂場などなど。

 

余計なものをおかず、掃除機とコロコロとウェットシートを駆使し磨きまくっている。

 

ついに同仕様もなくなって風水に頼り始めたのだ。

 

心なしか道端で小銭が落ちているのによく遭遇するようになった。

 

お会計で3つ買ったのに2つ分しかカウントされていなくて後で気がついたり(その場で気がついたら自己申告する心はまだある)。

 

思いがけず臨時収入があったり。

 

ドーン!大金!ということはないが

 

ちょこちょことそういうのが増えた。

 

 

もちろん掃除するときに

 

「金〜〜〜!金くれ〜〜〜〜〜〜!」

 

と言いながら掃除しているわけではない。

そんな欲どおしい人間になんか神様も寄り付かない。

 

初詣なんかのお参りも、お願いごとをするのではなく感謝をすることが本来の目的というくらいだし。

 

あと単純にキレイな水回りは心を豊かにしてくれる。

 

以前以上に家にいる時間も増えたので気になることも増えた。

 

とりあえず飲みかけのビールやらチューハイをそのままにしたりゴミを溜めることはやめたのだ。

クサイし。

 

意外と当たり前のように思えて、私のように鬱気味な人はこのあたりをおろそかにしがちだ。

私もそうだから。

 

でも一回重い腰を上げてピッカピカにすると気持ちいい。

 

次はステップアップして花でも飾ろうかなとか、ディフューザーでも置こうかなとか。

 

これでまた#丁寧なくらし

に一歩近づいてしまったな。

 

 

日頃使ってるものや場所に感謝して大事に使うってなんかいいなぁと思ったので書いてみた。

 

 

 

 

…よこしまな気持ちは、なくはない。

お酒の話でもという話

 

 

昨日おととい。

数少ない友人と会って最近の他愛もない話をしてきた。

 

まぁ会って話をしたとて話の主軸は「仕事をどうやって放棄するか」なのだが。

 

 

早い時間に外で酒を飲むのは普段あまりないので、新鮮であれはあれで楽しい。

 

楽しく解散した後、飲み足りなくなった私は千鳥足で帰り道のコンビニに寄って、ビールと酎ハイなどを買い込んだ。

 

今日は抑えめにしよう…

 

そう思った時点でもうすでにかなり酔っ払っていたのだが私なりに酔っ払いながら気を使った買い物をした。

 

帰る時間も惜しく歩きながらフラフラ酒を飲んで家に向かった。

 

家に入って靴を脱いだ瞬間私の中の何かかが切れた。

 

さっきまでの楽しいという気持ちから憂鬱な気持ちに、人目を気にしなくてよくなった瞬間切り替わる。

 

 

玄関で片手に持っていたビールのあまりを一気に飲み干し、家に入った。

 

飲み始めると止まらなくなってしまうのだ。

 

そこから換気扇の下で買った酒を延々と飲み続けた。

 

これが私の中でいうゾーンに入るという状態だ。

 

気がついたら朝だった。

 

…ハッ。。

 

 

 

別に友人と会うことが苦痛だったのではなく、ちょっと鬱っぽいメンタルがあるときに酒を入れると何かの拍子で鬱鬱鬱になる。

 

 

これをやり過ごすとそのあとは晴れやかな気持ちになるのだ。

 

 

とはいえ、かなりの飲酒量なので翌日は晴れやかというよりかは具合が悪くて何もしたくない、鬱より体調不良が勝っているという。

 

 

晴れやかはその二日酔いが抜けた後なのでしばしの辛抱。

 

鬼のような吐き気。

 

お酒の失敗談はまた色々あるので別で話していこうと思うが、お酒って何度二日酔い三日酔いになろうが失態を犯そうが、忘れた頃にはまたがぶ飲みして死ぬほど後悔する。

 

人間とは愚かだ。

 

わかってる。

 

わかってんだよ、だけどどうしようもねェんダァな。

 

気持ち悪くて頭も痛くて、自分の半径数メートルの空気が澱んでいて食欲もなければ、酒なんか見るだけで吐きそうになる。

 

 

朝起きて自分の周りに転がってる空き缶を見て吐いたことは何度あったことか。

 

吐瀉物を処理しながらセルフもらいゲロをするのがルーティンだ。

 

汚い話でごめんなさい。

 

本当にこの世の終わりを20歳過ぎてからで何度体感したのかわからない。

 

二日酔いのときって脳みそが僅かながら動いてる部分を必死こいて稼働させるから、平常時には考えないような変なことを考える。

 

あーもしきっと、地球に隕石が絶対ぶつかるってなったらこんな感じで何もする気起きないんだろうなぁ、とか。

 

アホすぎる。

 

「もう二度と飲まない」という発言を今まで何回してきただろう。こんな時人はn回目と表現するんだろうな。

 

 

人間がつく「怒らないから言ってごらん」、「一緒にゴールしよう」に並ぶ大ウソである。

 

あれほど飲みたくないと思っても、そんなことはあっという間に忘れ、また酒を流し込む。

 

時間と都合の許す限り、気持ちよく酩酊したい。

ただそれだけなのに、気が狂ったかのように飲んでしまうのはなぜなんだ。

 

私は不眠症も相まって酒で潰れないとしっかりねれない。

 

酩酊状態からの昏睡が熟睡と言えるのかよくわからないけど、何もしたくないどうしようもないときはさっさと飲んでさっさと寝潰れる。

 

これに尽きる。

 

孤独死のサイン~~~ってドリカムのメロディーが聞こえるね。

 

だって生きて呼吸してるだけでもしんどいことがこの世には多すぎる。

 

食べることも忘れて酒浸りにもなりたくなる。

 

というかお酒の味をしめちゃったら、それでごまかすよねきっと。

 

 

ということでちょっと元気になりました。

憂鬱の話

ここ数日また気が上手に乗らず

 

鬱期が強まってきた気がする。

 

何か特別あるわけではなくててこういうタイミングはいきなりやってくる。

 

 

そのときによって波があるが、このゾーンに入ったなとある程度わかるようになると切り抜けるまでじっくり耐えるか、とことんまで自分を追い込んでドンっとしんどい時間を作って一気に終わらせるかのどちらかを取る。

 

追い込むのはしんどいがその分短く済むので、その方が気が楽になることもある。

 

 

自分が憂鬱になりやすいのはもう物心がついた頃から。だと思う。

 

 

楽しいことがあっても、その場を素直に楽しめずに何かを常に心配していたり

何かソワソワと落ち着きがなかった。

 

学校生活やお稽古先でもそうで、周りの大人たちはただ恥ずかしがり屋でおとなしい子と捉えていたようだが今思うとそんなもので済まされない。

初めての人がいるところはどこに行くのも怖くて、同い年のこどもが苦手だった。

友達が少ないのは今に始まった事ではなかった。

 

あとは失敗するのがとにかく怖くて学校の実技科目が嫌いだった。

体育があると保健室に逃げ込むくらい。

 

休み時間にみんなが校庭や屋上で遊んでいても、ほとんど教室で本を読んだり、塗り絵をしていた。

 

 

人が怖いとか、何もしたくないとか、そんな決してプラスとは言えない気分が日々ベースなのは慣れたと言えば慣れた。

 

何がきっかけだったかはなんとなくいくつか思いつく。

 

 

 

 

突然だが

 

私は自殺を図ったことがある。

 

 

「死にたい」って何か辛いときとかやらかしたとき、言ったことある人は多いだろう。

 

そんなもんじゃなかった。

 

死にたいという”願望”を通り越して、「死ななくてはいけない」というものだったと思う。

 

 

おかげさまで私は未遂で終わり身体障害や知的障害なども残らず今生きている。

 

 

 

当時、駅のホームに行けば、ものすごいスピードで入ってくる列車を見つめることもあったし、丈夫な手すりを見つければ首吊りがうまくいきそうだとかそんなことばかり考えていた。

 

ここではなぜかそうなったかをとりあえず書かないが、その当時もうとにかく死ななきゃいけないと思った。

 

苦しいを通り越して、自分が生きているかよくわからなくなってしまったから。

 

何を食べても美味しくない、何を見ても感動しない、何に触れても感覚が薄れていってどうしようもないむなしさだけだった。

 

 

何でも自由にできるはずなのに、心に自由がないというか何かに縛られているような気持ち。

 

そんな中で、毎日毎日この言い表せない感情に耐えられなくなって私は気がついたら死のうとしていた。

 

失敗したため、私は今こうやって記事を書いているのだが、その後措置入院という形で、精神病棟に数ヶ月入院させられた。

 

その当時の話はまたどこかでおいおい書いていきたい。

 

簡潔に言うと、地獄だった。

 

そして、治療の一環としてあそこでの生活が意味があったかというと私の場合はなかった。

 

強いて言えば、もう2度と入院したくないので自殺の抑止力になってるという意味では効果があったと思う。

 

 

 

 

そんなこんなで今は環境がガラッと変わり、というか自分で変えてきて、なるべく自分が生きやすいところに身を置いている。

 

100点な生活ではないがそれなりに気に入っている。

 

 

だが今でも本気でどうしようもなく死んでしまいたいときがある。

この世の終わり、鬱を通り越して終末期だ。

でもそれは一時的なものだと時間を経てそう思うようになった。

 

 

かつてのこの経験の話をできる人は現実でいない。

 

知っている人間も何人かいるがタブーとして触れてこないし、私からもまず話すことはない。

 

以前、自分がこの人なら話せると思った人に話をしてみたところ

 

その人との間には深い溝ができた。

 

軽い気持ちじゃなくて真剣に言葉を選んで伝えたつもりだったが、理解されないものとして終わってしまった。

 

 

そうか、本気で死にたい気持ちっておかしいことなのか。

 

ショックだった。

 

今でも死についてはなかなか話すことができないテーマとして私の中にずっと浮かんでいる。

 

 

少なくとも私の周囲には本気で死を選ぼうとした経験のある人間はいなかった。

 

そう考えることすらなかったみたいだ。

 

 

私はたまたま出会ってこなかったが、言えない、言わないだけでたくさんいるはずなのに。

 

なんでこんなに禁忌扱いされるのか、不思議だ。

 

軽い気持ちで「あー死にたい」っていうのはいいのに、本気で死ぬことを考えるのはおかしいとされる。

 

あいつはヤバい、メンヘラだとか異常だとか。

 

頭がおかしいと思われて人が離れていくこともあった。

 

まぁそれはそれでいい、そういう人と縁がなかっただけなので。

人間関係の断捨離にはちょうどいい。

 

私は今でも死というものについて毎日のように考えている。

 

でもそれを実行することはおそらくもうないと思う。

 

 

社会通念上では自殺は”ダメ”だ。

 

だがその理由は絶対的なこれというのがない。

 

パッと思いつく、周りの人が悲しむからという理由では反論の余地がある。

 

 

でも自殺が”良い”とされる理由もまたない。

 

私はこの誰もが納得する自殺が”いい理由”を見つけるまでは死んではいけないと思った。

 

 

なんだよ、感情を失って毎日生きていることがしんどいんじゃないのかよと思われそうだが、この問だけは一生懸命考えたいのだ。

 

 

そうでなければ、なんのために、今日まで悩んで辛い思いをして死ぬことまで失敗して生きてきたかわからなくなってしまう。

 

放棄してしまうことが一番辛いと思った。

 

 

 

私は毎日タバコ吸いたいとか、お昼何食べようとかそんなことも考えているが、こういう話もどこかで生きている中でしたいと考えていた。

 

この生きることや死ぬことを考えるのが自分の軸なので。

 

ずーっと苦しいことばかりじゃない、沢山おもしろおかしいこともあった。

 

そういうものを織り交ぜながら、情緒不安定な毎日を残していけたらいい。

 

 

今はもうある程度生きていくコツや知恵を身につけたので憂鬱とは仲良くやっている。

 

 

 

ということで今日は今から気分を上げるため美味しいコーヒーでも買いに行こうと思います。